私はパーティに幾度となく救われたし、

パーティで幾度となく苦しい思いもした。
音楽が好きにもなったし、
音楽を嫌いそうにもなった。

パーティ終わりに階段を登り外に出たときに思ったよりも明るくなっていた空を見上げて、腰と膝に感じる鈍痛と疲労感を携えて向かう家路の長さに少し憂鬱感も抱えながら駅まで歩く道で、

その一夜を反芻して、感じて、考えて、自分の中に落とし込む時間が、今の自分の多くの部分を形成してくれていると思う。


だからこそ、自分にとって音楽もパーティもそういったカルチャー全体も大切で、かけがえのないものだと思ってるし、

オーディエンスとしてもアクトとしても、それらに対して真剣に向き合って、愛して、絶えないように守っていきたいと心の底から思ってる。



けど、私にとってはそれ以上に、自分と周りの人の健やかな毎日が続くことの方が大切だ。


自分自身と家族と話し合った結果、当面はパーティ及びイベントへの参加と必要以上の外出を自粛することにした。





昨今の社会情勢を日々メディアは原型が無くなるくらいの勢いで擦りまくっていて
それに付随した不確かな情報が、ウイルスにも匹敵するスピードで増殖し拡散されていってる。

そして其れ等に反応し、時に相手を殴りながら各々が選ぶ道を模索しているその様は、正直コロナウイルスなんかよりも遥かに混沌とある種の恐怖を覚える。


そんな中、閉鎖された空間にて行われる各種イベントはモロにその影響を受けている。
国からの中止要請。それらに対して首をどう振るべきか。

個人的には縦に振るも横に振るも、そのどちらかのみが正しいとは思えない。

ただその決断に辿り着くまでの道は、かかった時間の長さに関係なくとてつもなく勇気のいるものだと思うし、

いずれにしても決断を下してくれたことに対して、どう思うとか以前に感謝しかない。


その上で、というよりもその決断に依存することなく、自分自身も首をどちらに振るのかを決断すべきだと考えている。


今の状況を見ていても、感染するときは何をしていようとも感染するものだし、手洗いうがいをしたり免疫力をつけておく事以上に出来ることといえば「普段通り過ごす」なのではないだろうか…

などつらつらと御託を並べて自分の中で結論づけた上で、結局その実は単純に「行きたい」という思いでしかなかった。


オンライン上での膨大な有機的な情報に少々疲弊気味であったのにも関わらず、

更に無機的な情報までもが増殖し相互的にヒートアップしていく現状に白旗を上げそうになっていた自分を、パーティと音楽に救ってもらいたかったのだ。



しかし、私個人の決断が、共に生活している家族やその周りの人々の生活にどれほどの影響を与えうるものなのかは、冷静になれば直ぐ分かることだった。


結果、パーティやイベントへの参加含め、外出をなるべく控える決断をするに至った。




私の周りや知り合い、先輩方の中にも、イベントの開催や参加について頭を悩ませながらも決断をしている方々は大勢いる。

決断の方向は違えども、多くの方が「申し訳ない」という単語を口にしている。


本当にその人は謝るべきなのか、私には答えが分からない。

でも、少なくとも、かけるべき第一声は「有難う」なのではないかな、と思う。


私もこの決断をしたことに対して、「申し訳ない」という思いを抱いてしまっている。

誰に対して、何に対して申し訳なさを感じるのか。何故感じなくてはならないのか。

それっぽい宛先や理由は出てくるけど、本当のところは分からない。


ただ、私がこの決断をしたのも、するに至ったのも、誰かや何かのせいで、とは思いたくないなと思う。

コロナを恨むわけでもないし、共に生活している家族のせいでもない。


ひいては中止要請をした国や対策を指揮している政府、ライブハウスなどに焦点を当てて放送していたメディア…

それらいずれに対しても、その行動の是非は問われるものだとしても、少なくともそれらのせいだとは思いたくない。


当然私は然るべきものには従った上で、国や政府、メディア等他者に支配されて生きていたくはないと思っているからだ。



寂しさは感じる。やり切れなさも感じる。

オーディエンス側がそうなのだから、主催側やアクトの方々の其れは計り知れないものだと思う。


だからこそ、開催するにしてもしないにしても、決断を下した方々には心から感謝を伝えたい。



再びフロアで会える日は、そう遠くないと信じている。


0コメント

  • 1000 / 1000